日本・どんな国?

・・・外国人の見たニッポン


ここに挙げた日本・日本人を賞賛する言葉の数々を今の現代に生きる我々が読むときにどこか居心地の悪さを覚えないであろうか?

 幕末開国以降、それぞれの時代に於いて外国人が我が国に強く関心を抱いた時期が大きく分けて三つあったように思われる。

 最初は開国直後の「謎と神秘の国」としての日本。次に日清・日露戦争をして大国を打ち破るという離れ業をやってのけた「奇蹟のアジア国家」・日本。そして第三には敗戦で打ちのめされた後の経済復興、高度成長を成し遂げた「先進国」・日本、である。

 数多く記された外国人が記した日本に関する書物を紐解くときに、我々は少なからず驚きを隠し得ない。

ここに挙げた言葉は日本を賞賛する言葉のみを挙げた為(当然、屈辱的な記述の著書もある)なにやら、こそばゆくもあり、居心地の悪さも感じ得ないが、それぞれの時代背景を鑑みると理解しうる事かとも思える。

 ここでは諸外国の歴史上の人物が記した日本観、その言葉に触れ、元来我々日本人が持ちうる自らの良さを再認識し、あらためて日本人の感性と、日本という国柄に思いを馳せたいものである。


アインシュタイン

〜大正11年(1922)初来日の時に残した言葉〜
 「近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的発展には他の国と異なる何ものかがなくてはならぬ。果たせるかな、この国、3千年の歴史がそれであった。この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比類なき国体を有することが、日本をして今日あらしめたのである。私はいつも世界上のどこか一カ所位、このような尊い国がなくてはならぬと考えていた。
 何故なら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦に疲れる時が来る。その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時がくる。この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれた事を」 
「日本の家族制度を賞賛して」  〜「アインシュタイン講演録」より〜
私たちの国の教育は、私たちが出来るだけ都合のいい条件の下に個人として生存闘争を多く取り入れるように向けられます。特に都市部においては極度の個人主義や最高圧力の緊迫の下でのあたり構わない闘争や、出来るだけたくさんの贅沢と享楽を勝ち得るがための強烈な労働などがあるのです。
家族の絆は緩るみ、伝統的な芸術や道徳の影響力は比較的わずかです。
個人の孤立はこの生存競争の必然的な結果であるが、それは人間にとって共存における向上の中で与えられる、あのうるわしい安らぎの気持ちを奪ってしまいます。
唯物主義的な教養は・・・・それは実際の生活に欠くことの出来ないものですが・・・・個人主義の有様に更に多くの鋭さを与え、これによって個人主義の孤独さがますます強く意識に現れました。

日本はまるで異なっています。個人主義はここでは欧米に於けるよりも遙かにわずかで、家族の絆は法律がそれを元々わずかしか保護しないにも関わらず、私たちよりもずっと強固です。法律よりも世論の力がここでは私たちの国に比べてもっと強いので、そのために家族の絆が緩まされないのです。(法律に)書かれていても書かれないでもお互いの噂がこれを強制して、また、日本人の教養や生来の善良さで保たれています。

〜「関門・福岡のアインシュタイン訪日最後の一週間」より〜
この自然に適応した生活様式はどこまでも貴いものです。できるものならば、この日本の生活と様式をいつまでも楽しみたいもので、もし私は事情が許せば、日本に永住してもよいと思っているくらいです。
    アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)理論物理学者
    ユダヤ系ドイツ人。1933年、ナチスに追われて渡米、40年、市民権を得た。光量子説・特殊及び一般相対性理論などの首唱者。1921年、ノーベル物理学賞受賞。
    小泉八雲の著書により日本の文化と国民性に深く共感し、大正11年11月17日〜12月29日(43日間)、待望の日本に来日。各地で講演、観光及び研究の日々を送り、美しい自然、静寂さ、自然と調和した清楚な生活様式、奥ゆかしく和やかで、微笑みを絶やさない人々に感銘を受けたという。

    ※資料提供御礼:イムカ株式会社


エドウィン・アーノルド

 地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国

「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」

明治22年(1889)
    エドウィン・アーノルド(1832-1904)イギリス
    ロンドンの詩人・ジャーナリスト。インドのデカン大学の学長を務め、帰英後デーリーテレグラフ紙の編集者。仏陀を主題とする詩「アジアの光(原題:The Light of Asia)」(1879)の作者。


フランシスコ・デ・ザビエル

『聖フランシスコ・ザビエル全書簡3』より
「私達が今までの接触に依って識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。
 日本人は、総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこふる感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉がすべてである。
日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。」
「住民の大部分は、読むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間に学ぶためのすこふる有利な点である。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて稀である。死刑を以て処罰されるからである。彼等は盗みの悪を、非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ふことを好む。」
    フランシスコ・デ・ザビエル(1506-1552)スペイン宣教師
    日本におけるキリスト教の開教者。イエズス会士。東洋伝道の為インド、マラッカ等を遍歴、天文18(1549)年、鹿児島に至り日本各地にて伝道。後に中国に渡ろうとするも広東付近で病没す。


ルイス・フロイス

『ヨーロッパ文化と日本文化』より
「ヨーロッパの子供は青年になってもなお使者となることはできない。日本の子供は十歳でも、それをはたす判断と思慮において、五十歳にも見られる。」
「われわれの子供は、その立居振舞に落着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く賞讃に値する。」
「われわれの子供は、大抵公開の演技の中でははにかむ。日本の子供は恥ずかしがらず、
のびのびしていて、愛嬌がある。そして演ずるところは実に堂々としている。」
    ルイス・フロイス(1532-1597)ポルトガル宣教師
    フランシスコ・ザビエルから日本の事情を聞き永禄6(1563)年来日。信長・秀吉の保護を受けるも伴天連追放令の後は長崎などに移り、長崎にて没する。


ダグラス・マッカーサー

『マッカーサ一回想記-下-』より
昭和天皇の御言葉に対するマッカーサーの所感

 私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不忠正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。
けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

    ダグラス・マッカーサー(1880-1964)アメリカ軍人
    大東亜戦争時の極東軍司令官。終戦後は連合国軍最高司令官として日本占領政策に当たった。1951年、朝鮮戦争処理問題にてトールマン大統領に解任される。


ブルーノ・タウト

(伊勢神宮の社殿建築を評して)
伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な桧、屋根の萱、これらの単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬ迄に、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初にこれを作った人の名も伝わらないこの建築は、恐らく天から降ったものであろう。
    ブルーノ・タウト(1880-1938)ドイツ建築家
    ドイツ近代を代表する偉大なる建築家。ベルリンを中心に、新しい素材を駆使した前衛的な作品を数多く発表。その先駆的な発想の高い芸術性により20世紀の最も興味深い先覚者の一人である。
    まさに建築界における"知の巨人"ともいえるタウトは、建築の完全なる美を追い求め、ナチス政権から亡命し、日本文化に巡り会うこととなる。著書に「近代建築」「日本」「日本の美術」等、日本に関する著作も多い。


エミール・E・ギメ

「東京日光散策」より
「初めから日本人は、自分たちを取り巻いている自然に驚嘆していた。日本人は慈悲深い大地と、魚がたくさんいる海を崇拝した。神々が彼らを幸福にしてくれるのだと心底から考えた。(中略)日本人は黙想し、手を合わせ、頭を下げて礼拝したのだ。誰を、何をだって?・・・・・・・すべてをだ!」
    エミール・E・ギメ(1836-1918)フランス
    実業家にしてバレイやオペラの作曲など芸術にも手を染める。のち考古学や古代の学問に関心を寄せ世界各国を周遊、明治9(1876)年に画家レガメと共に宗教事情視察の目的で来日。パリに自らの収集品を元にギメ博物館を設立、日本、中国、インド、近東の収集品で知られる。


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

「ゴッホの手紙」より
日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり、哲学者であり、知者である人物に出合う。彼は、歳月をどうすごしているのだろう。地球と月の距離を研究しているのか。いや、そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いや、そうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、次には季節を、田園の広々とした風景を、さらには植物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして、彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼が自らが花のように、自然の中に生きていくこんな素朴な日本人がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。
(中 略)
僕は、日本人がその作品のすべてのものにもっている極度の明確さを、羨ましく思う。それは決して厭な感じを与えもないし、急いで描いたようにも見えない。彼らの仕事は呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように簡単に、楽々と確かな数本の線で人物を書き描き上げる。ああ、僕もわずかな線で人物が描けるようにならなければならない。
    ヴィンセント・ウィレム・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)オランダ画家
    牧師の長男として生まれ牧師となったが80年画家となる決心をし、弟・テオドールの援助のもとに各地を転々としながら作品を描いた。88年、アルルに移住。「ひまわり」「アルルのはね橋」等の代表作を描き、ゴーガンとの共同生活をするも破綻、ピストル自殺を図り、2日後に死亡した。